どちらも初級で習う文法項目だが、いずれも「~した」と訳されがちなため、何が違うのかいまひとつ実感が伴わない。
私自身、この違いを本当の意味で理解できたのは、ある出来事をきっかけにしてであった。
先生との会話で起こったすれ違い
中国語教室の自習室で次回の授業で読む文章の予習をしていたある日、通りかかった先生がふと私に声をかけた。- 先生:你看了吗?
- 私:我看了。
すると先生は続けて尋ねた。
- 先生:看了多少?
このとき私は、“看了多少?”(どれくらい読んだ?)を「何回読んだ?」と勘違いしていた。
そこで元気よくこう答えた。
- 私:我看了一次。
先生は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、次の授業の準備があったからだろう。何も言わずにその場を去った。
私はそのとき、自分が何を間違えたのか全く分かっていなかった。
二度目の同じ質問
数日後、別の文章の予習をしていたときに、再び似た場面が訪れた。今度は少し長い文章を読んでいた。
- 先生:你看了多少?
さて、前回この質問をされた際に読んでいたのは、わずか2ページのごく短い文章だった。
しかし、今回読んでいたのは10ページ弱ある長めの文章。まだ読み終えていなかったのでこう答えた。
- 私:我只看了三分之二。
すると先生は納得したような表情で、日本語で「頑張ってね」と言って去っていった。
そして私はようやく気づいたのだ。
先生の“看了多少?”は「どのくらいの分量を読んだか」を尋ねていたのだと。
“看了”は「読み終わった」とは限らない
ここで私が大きな勘違いをしていたことに気づいた。数量を問う“多少(いくら、どれほど、どれだけ)”を、回数を問われていると思い込んでしまったわけだが、この思い込みはそもそも“了”の意味を理解し切れていなかったことにある、と。
日本語では「読んだ」と言えば、たいてい「最後まで読んだ」という意味に聞こえる。
しかし中国語では、“看了”は単に「読んだ」というだけであり、「読み終えた」ことまでは含まれない。
したがって、先生が“看了多少?”と尋ねたのは、私が次回の課題文を「どこまで読み進めたのか」確認するためだったのだ。
私は、読み終えていること前提で“我看了。”と答えてしまったが、これでは予習が完了したかどうかは分からない。
「読み終えた」と言いたいなら、“看完了”と結果補語“完”を付ける必要があったのだ。“完”を付けることで、動作の結果が明確になる。
一方で“了”は、動作が完了したことを示すだけで、動作の結果どうなったかまでは言及しない。
つまり、次のように区別される。
“完”の有無という些細な違いが、意味を大きく変えるのである。
まとめ
この体験を通して私は、“看了”は単に「読んだ(=読むという動作をした)」という事実を述べるにとどまることを改めて学んだ。それに対して、結果補語“完”は「動作の完了」を示し、「最後までやり遂げた」ことを明確にする。
私が先生との会話で戸惑ったのは、この完了の助詞“了”と結果補語“完”の違いを意識できていなかったからだ。
中国語では“了”がついたからといって必ずしも「全部やり終えた」とは限らない。結果補語の重要性を思い知らされた。
おまけ
ある日、先生に「日本語の小説を読んでみたい」と言われた私。綿矢りさ『パッキパキ北京』を薦めてみた。中国が舞台だし、先生は魯迅が好きなので興味を持ってもらえるかなと思ったのだ。
数か月後。
- 先生:そういえば、『パッキパキ北京』読みましたよ!
- 私:読んでくれたんですか!どうでしたか?
何を隠そう私、綿矢りさ作品のファンだ。
中国人の先生がどんな感想を持つか気になる。
- 先生:まさか縦書きとは思わなかったから。読みにくかったです。
思いもよらぬ応えが返ってきた。
そのまま次の言葉を待ったが、内容については何も言ってこない。
私は「あー、こりゃ読んでないな」と直感した。
しかし、先生が「読んだ」と言っている以上、ツッコむのは野暮だし失礼だ。
そう考えて話は流してしまったのだが、今思えば、先生にとってはたとえ2~3ページしか読んでいないとしても“看了”=「読んだ」で正しい発言だったのだろう。

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